紫微斗数 占い静岡 宮立命 の日記
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母の人生 ④
2017.09.16
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母の人生 ④
母は、9人兄弟姉妹の最年長の長女として生まれたが、30代に成るぐらいまでに末っ子の弟を残して、他の7人の兄弟姉妹をすべて亡くした。7人の命を引き継いだ分、苦難も7人分だったのかも知れない。更に30歳も年下の末っ子の弟も50歳代で早逝し、母だけ93歳までの天寿を全うした。
生まれる前から、そういう宿命を背負って来たのだろう。そう命盤は物語る。
父は寂しい人生であったろう。
母はまだ良い方だ、「お前がいつも側に居てくれたから、お母ちゃんは幸せだった」と。
でも、私は高校生の頃、小遣いが欲しくて母に年中無理を言っていた。
其の時にはもう母にお金をくれるお爺さんも亡く成っていたから、父が大工仕事で留守の日を狙って蔵の中のコメを30Kgほどずつヤミ米買い取りの商人に密かに来てもらい売っていた。一度にたくさん売ると父に見付かるので、ひと月に一回程度の頻度であった。30Kgで3.000円ぐらであったろう。
ヤミ米商人は普通の格好で自転車で来ては大きなリュックサックに入れて帰った。ヤミ米商人も事情は承知していたようだ。
私が小学校に入る前に母はあまり家に居なかった、畑に行っていたのか、何処に行っていたのか、昼にも帰って来なかったことが多かった。朝は居たが知らないうちに何処かに行ってしまい、姿がないのだ。
父に聴いても返事は無く知らん顔。今になって思うと、そういう時にはお爺さんも居なかった。いつも一緒に居てくれるお爺さんも居なく一人ぼっち、居るのは一言も口をきいてくれない他所の叔父さんだった。私は母がもう帰って来ないのではと思い、一日中泣きながら大きな家の周りを探し回っていた。
そんな事がトラウマになってしまったらしく、大人になってからも好きな人は知らない内に何処かに行ってしまう、という思いに悩まされた。好きな人が出来ると去ってしまうのではと思うから、相手からしてみれば「煩い」ということになってしまった。そうすると本当に去って行ってしまった事は多かった。そして、いつも恐怖感を伴った孤独に襲われたものだ。
父の本業は大工だが、大工の仕事の依頼の無い時は、家計費を稼ぐために養蚕や米作りをして出荷していた。しかし一旦、大工仕事が入ると家を一月ぐらいは日中空けた、お爺さんがいる頃は、お爺さんと母で農作業に専念していた。
お爺さんが亡くなってからは母が一人で農作業をしていた。でも夫婦二人でも多過ぎるぐらいの耕作をしていたから、母は休む暇なく作業しても、とても間に合うものではなかった。しかし、父が夕方に大工仕事から帰り、田んぼを見に行って作業が進んでいないと「何をしていた」と怒鳴っては、しまいには暴力を奮っていた。
私が30歳の頃の夕方、母が夕方薄暗くなって一人畑から土埃に紛れて帰って来た。
私は「お母ちゃん、夕飯の支度は?」
「ああ、まだだ、畑仕事が遅れてなあ」
「俺、手伝うよ」
「じゃ頼む、お母ちゃん豆腐屋さんが来るから買ってくる」
といってアルミの片手鍋を持って走って出ていった。
私の実家は大通りから細い道を50Mは奥に引っ込んでいた。
遠くから豆腐屋さんの引き売りのラッパの音が聞こえてくる。
暫くして母が豆腐を買って走って帰ってきた。
母は台所の土間に入って来るなり、へんへなと農作業用の足袋を履いたまま板の間に崩れ込んだ。
「お母ちゃん、何してる?」
「孝宏、お母ちゃん何か変だ」
「ええ? どうした? フザケてるのか?」
「力が入らん・・・」
アルミ片手鍋が土間に転がって、中の豆腐が砕けて土の上に転がった。
父が庭に居た。
「お父さん、お母ちゃんが変だ!」
「どうした」
父は落ち着いて入ってきた。
「澄江!」
「俺、お母ちゃんを病院に連れて行く」
そう言って、私は自分の貨物自動車の後ろの座席を平らにして、父と二人で母を後ろの荷台に寝かせた。
公立病院は車で30分ほどの所に有った。救急車を呼ぶという考えは浮かばなかった。父も付き添い、病院への山道を向かった。すでに日は暮れ、車のヘッドライトがトンネルのようになった木々の梢を照らしていたのが印象的だった。
病院では救急治療室に運び込まれて宿直の先生が診察してくれた。
血圧は上が270,下が200、「脳卒中ですね。脳内に出血しています。入院の準備をして下さい。一切飲食物は与えないでください」先生はそういうと治療の準備に取り掛かり点滴を始めた。
母の顔面左半分が引きつって人相が異常に変わっていた。
母の入院は3ヶ月に及んだ。右半身完全麻痺。
先生は転院して温泉病院でのリハビリを薦めてくれた。
私も母にリハビリを薦めた。
「お母ちゃんはリハビリは絶対しないからな」
「えっ! どうして、このままじゃ歩けなくなるかも知れんって先生は言ってるぞ。片手じゃあ普段も不便じゃん」
「お母ちゃんは片手麻痺でも構わん」
「それじゃ、どうやって生活するだね?」
「お母ちゃんはこのまま不自由がいい。もう畑には行きたくねえ」
「そうか」
「お母ちゃんは不自由になって幸せだ、毎日寝て居られる」
母が70歳になったばかりの頃だった。
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